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大関昇進

■ 相撲に掛けた半生

元大関清國 近影同郷秋田県の元横綱照國の荒磯部屋に所属、1956年9月場所に初土俵を踏んだ。横綱大鵬と同期である。のちに親方の名跡変更(6代伊勢ヶ濱)で伊勢ヶ濱部屋所属となった。まだ幕下時代の1962年5月場所、「梅ノ里」より「清國」(「清」は5代伊勢ヶ濱の元関脇清瀬川より、「國」は師匠の照國より)に改名。素質はあるのにあまり稽古熱心とはいえず師匠から「運ちゃん」というありがたくないニックネームがつけれられていた。が、後輩の淺瀬川に十両昇進で先を越されて発奮し、そこから稽古に打ち込み、1963年5月場所に十両に昇進、3場所で十両を突破して同年11月場所に入幕を果たした。新入幕の翌場所の1964年1月場所は初日から14連勝、横綱大鵬とともに勝ち放し、同期生の優勝決定戦かと騒がれた。しかし、千秋楽に関脇大豪に当てられて敗れ、優勝はならなかった。この活躍から北の富士・若見山と「若手三羽烏」と称された。なおこの場所で前場所優勝の大関栃ノ海の横綱昇進がかかっていたが清國のよもやの大健闘で2敗ながらも次点にすらもなれないという珍事が起きた。が、場所後栃ノ海は横綱に推挙されている。直近場所が優勝、相星、次点いずれにもあてはまらないというケースは年6場所制以後ではこのケースのみである。翌3月場所には前頭13枚目から一気に関脇に昇進し、その後も上位に定着、1967年11月場所からは三役を10場所連続で務め大関候補として評判になった。1969年5月場所で12勝3敗の好成績を挙げ、場所後に大関に昇進した。

優勝盾新大関で迎えた1969年7月場所では千秋楽に大鵬との相星決戦を制して12勝3敗の成績を挙げ優勝決定戦に進出、前頭5枚目藤ノ川を破り初優勝を果たした。新大関の優勝は1949年10月場所の千代ノ山以来の快挙、この場所横綱柏戸が引退して大鵬の一人横綱となっていただけに一気に横綱昇進の絶好の好機となったが、翌9月場所2日目の小結麒麟児戦(後の大関大麒麟)で頸椎を故障。それが結果的には大関どまりになる原因の一つになってしまった。

きちんと両手をついて立合いをおこなう力士であり、1970年前後の、手をつかないことが常識化していた時代に、清國の立会いは賞賛された。優勝祝賀会また、それを生かした〈後の先〉の立合いで横綱玉の海に勝ったこともある。腕力が非常に強く、それを生かしたおっつけや小手投げは大鵬はじめ相手力士の腕を痛めることがたびたびあり「壊し屋」の異名をとった。四つは左でも右でもとれる所謂『なまくら四つ』だった。錦絵から抜け出したような風貌で「綺麗なお相撲さん」として巡業では大鵬以上の人気があった。なお、横綱北の富士との幕内通算対戦は52回を数え、横綱武蔵丸-大関貴ノ浪戦(58回)と大関魁皇-同千代大海戦(54回)に抜かれるまで、当時の歴代最多記録だった(現在は史上3位)。

1974年1月場所中に引退した後はしばらく年寄楯山を襲名していたが、1977年の伊勢ケ濵親方の死去により年寄7代伊勢ヶ濱を襲名して部屋を継承した。親方として前頭筆頭まで出世した若瀬川らの関取を輩出した。協会理事には至上第2位の若さで就任し、9期務めた。

再婚し、一子をもうける。しかし夫人を追い出そうとした親方の近親者が週刊誌に捏造記事を売り、夫人の名誉を傷付け、さらに文京区白山の土地5億円を詐欺により詐取した。本事件は詐欺を行ったものが逮捕され、夫人の名誉も回復した。ホテルを転々とするなど部屋運営に苦労したが、夫人の尽力もあって千葉県柏市、台東区に部屋を創設した。以後定年まで、七代伊勢ヶ濱親方を35年の長きに亘り務めた。

7代目伊勢ヶ濱親方婦人と甥の元十両玉ノ国、関脇玉乃島の兄弟定年を迎えるに当たって後継者がなく、暫定的に唯一の部屋付き親方だった若藤親方(元前頭筆頭和晃)に継承させようとしたが若藤も停年まで一年足らずであり、結局部屋を閉じることとなった。これにより、立浪・伊勢ヶ濱連合は立浪一門に改名することとなった。その後、当時安治川部屋を経営していた元横綱旭富士の安治川に年寄伊勢ヶ濱を継承させて伊勢ヶ濱部屋が復活した形となり今日に至る。

肩の脱臼をはめるのがうまく、横綱千代の富士が取り組み中に肩を脱臼したときに、肩をはめる応急処置を施したことがある(千代の富士は肩の脱臼癖対策に筋肉で関節を固めていたことで有名だが、これが1度外れるとはめるのが大変難しいと言う問題を起こすことになり、治せるのは伊勢ヶ濱親方だけだった。)。天理教の信徒として有名だった。

2004年9月に週刊ポスト誌上で一門の長でありながら現役力士の無気力相撲に警鐘を鳴らした。定年を役員(理事)として迎え、長く協会に貢献した。

清國の大関在位は28場所。優勝1回。3賞受賞7回。引退後は32歳と最年少で協会理事に就任し、9期(歴代2位)もの長きに亘って務めた。
福岡担当部長は18年(歴代1位)の長さである。


新大関で優勝を果たした1969年7月場所の時に乗っていた車の番号は「75-81」だった。「ナゴヤ1番」で語呂がいいと話題にされたが、語呂合わせの通りに本当に優勝した。

息子の嘉由生は2009年3月落語家の林家木久扇に入門して林家木りん(はやしや きりん)の名前を貰う。

■ 略歴

清國イラスト

■ 生涯成績

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